星 の て が み

「存在」(ある)という神秘

   稲垣 良典

 
 わたしたちは「ある」という言葉をどこで学んだのだろう。
子供たちが幼かったときお風呂に入れるのはわたしのつとめだったが、
或る日、わたしの語りかけに子供が、始めて表情とか身振りではなく、
言葉で応答しているのに気付いて、驚きのあまり
かかえていた子供を落としそうになったことがある。
子供たちが最初に口にした言葉が何であったかは覚えていない。
とにかくそのときは、この子供が言葉で交わり(コミュニケーション)をする存在になった、
という不思議さに圧倒されたのであった。 

ところで、わたしが「ある」という言葉の起源にこだわるのは、この言葉で呼ばれ、
指し示されるようなものはこの世界のどこにもないように思われるからである。
「ある」のは「もの」ではなく「Xである」状態、あるいは「Yがある」働きを指すのだ、
と訂正されるかもしれない。しかし「Xである」というときに理解されることはすべてXに含まれており、
「Yがある」と言うときの「ある」は「知覚される」というだけのことではないか。
つまり、わたしたちは「である」「がある」という言葉をのべつ繰り返して何事かを言明しているが、
「ある」という言葉はわたしたちの心のなかでうつろに響いているだけで、
まったく外の世界とはつながっていないのではないのか。

 しかし、この「ある」という言葉がわたしたちにとってなくてはならない大切なものであることも確かである。
というのも、実は「ある」という言葉を学び、使いこなせるのでなかったら、わたしたちは話すことも、
考えることもまったくできない。なぜなら、考えるという営みは判断するという働きなしには成り立たないが、
判断の働きは、肯定にせよ、否定にせよ、心のなかで「ある」という言葉を発することによって行われるからである。

 ここで話は始めの問いにもどる。「ある」という言葉を「どこで」学んだのか、という問いにたいして、
すぐに外の世界に目を向けて、この言葉で呼ばれるものは「どこにも」ない、と答えたのだが、
本当は外の世界ではなく、アウグスティヌスが『告白』第九巻(1)で語っているように、
わたし自身に立ち帰り、さらにわたしを超えてわたしの内なる世界に心を向けるべきだったのではないか。
「立ち帰り」とは関係であり、「わたし」という存在はその中核に関係あるいは交わりをふくむ存在なのである。

わたしたち人間が「ある」という言葉を学ぶのは、どんなに幼稚で素朴であっても、自らに立ち帰って、
交わりとしての存在(ある)に気付くことができたときだ、と言えるのではないか。
それは言葉が生まれるときであり、言葉はハイデガーの言葉をかりると「存在の家」なのである。
(2)「存在」(ある)という神秘に思いをひそめることは人間の本質の探求につながる。
「存在」(ある)という言葉を空虚にしてしまったわたしたちの世界は、人間「である」ことを
どこかで放棄してしまったのではないか。
(1)アウグスティヌス(354 - 430)の『告白』第九巻第十章参照。  
この箇所でアウグスティヌスは、ミラノから故郷北アフリカへの帰途、
ローマ近郊のオスティアで船待ちしている間に、母モニカと共に  
神秘的経験をしたときのこと を物語っている。
(2)ハイデガー
『「ヒューマニズム」について-パリのジャン・ボーフレに宛てた書翰』  (一九四七年)を参照。


  
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プロフィール

1928年 佐賀県に生まれる。
東京大学 文学部卒業、
哲学・法哲学・キリスト教思想史専攻アメリカ
・カトリック大学大学院博士課程修了Ph.D.,文学博士、
プリンストン高等研究所において研究南山大学、
九州大学、福岡女学院大学教授を経て、
現在、長崎純心大学大学院教授九州大学名誉教授

[著書]
『習慣の哲学』(創文社)
『抽象と直観』(創文社)
『神学的言語の研究』(創文社)
『トマス・アクィナス』(講談社)
『天使論序説』(講談社)
『知性としての精神』(共著・PHP研究所)
『聖書の言葉・詩歌の言葉』(共著・PHP研究所)
『人間文化基礎論』(九州大学出版会)
『人格《ペルソナ》の哲学』(創文社)など、他多数。

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