星 の て が み

祖母が亡くした二人の子供

志賀 泉
 

私の祖母は、明治41年1月に生まれ平成20年12月に亡くなった。百歳まであと半月足りなかった。

祖母の死後、祖母が大学ノートに書き綴っていた手記が見つかった。東北の片田舎で生まれ育った祖母は、文化的に恵まれた環境にあったわけではなく、特別な教育を受けたわけでもない。文章としては拙いかもしれない。それでも読む者に強く訴えかける力があるのは、飾りのない率直な語り口のためでもあろうが、それに加えて、祖母の少女時代にはまだ周囲に文盲の人が多くいたはずで、無文字社会の口承文化の名残が祖母の肉体に染み付いていたのではないかと思う。

ことに戦中戦後の章は、簡単な表現にもかかわらず、情景がありありと目に浮かんでしまう。「言霊」と言うのが大袈裟なら「物語る力」と言い換えてもいい。いずれにしても、近代的な国語教育を受けた日本人が失ってしまったものだ。

祖母は日中戦争(1937年〜)と、太平洋戦争末期(1945年)の二度、夫を兵隊にとられている。米屋をしていたが、米が配給制になると商売ができなくなり、子供達を育てるのに大変な苦労をした。田舎町ではあったが、家の隣が工場であったため空襲に遭い、機銃掃射の恐怖も味わった。

玉音放送をラジオで聞いたのは、家屋の一部を山間に移築して疎開しようとした矢先のことだった。その部分を抜き書きしてみる。

「敗戦の噂も流れ艦砲射撃の噂も出始めています。それで、大富の勇兄さんとも相談して、大富の前の田圃にかこまれた所に、ばんにゃ森という土地がありますので、貸家をこわしてそこに移すことに決め、時田さんに頼みました。時田さんは、とても忙しいが出征家族は大切だからと、すぐに、やじ引き(家尻引き)をしてくれることになり、土方の親方の赤井さんをよこしてくれました。その時うちには誰も居ませんでした。縁側に腰かけて、隣の家をながめながら、赤井さんと二人で話をして居りました。ところが、かけっ放しのラジオが聞きなれない声で放送を始めました。赤井さんと私は話をやめて、聴き耳をたてていました。私は何のことだか、よく分からなかったのですが、赤井さんは「アッ終戦だ」と言って、かけ出して行ってしまいました。私は一人しみじみラジオに耳をかたむけながら、アアこれが玉音なんだな、戦争が終わるということを言っているのだなと思いながら、全身の力がぬけたような思いでした。一日の違いで、この家は助かったのです。間もなく、父チャンは青森から帰還しました。毛布や軍服をもらい土産に青いリンゴをもってきました。」

ドラマや映画などでは、広場のような場所でラジオの前に市民が整列し玉音放送を聴きながら泣きむせぶ、といった場面が劇的に再現されるが、実際のところは祖母のように、日常の時間の流れの中であっけなく幕が下ろされたと感じた人も多かったのではないだろうか。
 
祖母は最後に「色々と苦しい戦中戦後でしたが、今思い出すと、とてもはりきった毎日で、なつかしく思い出されます。」と書いて戦争の思い出を締めくくっている。
 
祖母にとっての心残りは、敗戦直後で生活が困窮していた時期に、満足な事をしてやれないまま死なせてしまった二人の子供のことだろう。私自身、亡児のことを話し出すと決まって涙をこぼしていた祖母の姿をよく覚えている。

長い引用になるが以下にそのまま書き写す。特に解説は加えない。その必要もないだろう。
祖母の体験した哀しみをより多くの人に伝えることが、祖母のノートを受け取った私の、
義務のように感じるからである。


 稔のこと

稔は昭和二十三年に生まれ二十六年に亡くなりました。戦後の、物のもっともない時です。お腹の中にいる時も、ろくなものも食べず、生まれてからも、栄養になるようなものは、くらいでしたので、生まれた時から、首のすわらない、細い首で、色の白い子でした。今考えてみると、早く死ぬせいか、よく私の後を追っていました。配給の人絹(人造絹糸。レーヨン)の着物を着て、よく表通りを立って見ておりました。自動車を見ると、あれに乗りたいと言っておりました。生きているうちに、一度も床屋に行きませんでした。床屋で頭をすりたいと言っていましたが、まさか死ぬとは思いませんでしたから、床屋につれて行きませんでした。こんなに早く死ぬのだったら、床屋につれて行けばよかったなといつも思い出します。

原町(隣町)へ汽車に乗せて行きましたら、窓から目を離さず原町まで立ったまま外を見ておりました。これが、稔の一生のうち、私がしてやれた、たったひとつの良い思い出です。稔は弱く生まれて、三年の人生のうち、たくさん病気をしました。
一歳半の頃、膿胸といって、肺と肋膜の間に膿のたまる病気になりました。山田医者に行って、二、三回針をさして膿を抜き取りました。それから、肺炎を起こしました。その頃新薬で、ペニシリンが出てきました。上町に、東京から疎開していた医者がありましたので、その医者にみてもらいました。ペニシリンは一本で七百円
でした。治ってもまた肺炎を起こし、三回くらいなりました。その後、八百子と一緒に重いハシカにかかり、体が弱っていたところに疫痢にかかり、亡くなりました。
今なら、よい薬もあるから、死ななくてもよかった病気です。こんなに早く亡くなるのだったら、あれもしてやりたかった、これもしてやりたかったと、悔やむことばかりです。ごめんなさいネ稔さん、子供を亡くした母は、一生悔いを残し、苦しい思い出をしまって、生きています。

 八百子のこと

八百子はサイパン玉砕の時に生まれました。お産をして寝ておりますと頭の上のラジオが、サイパンの玉砕を告げました。私はとても悲しくて、泣きました。そしてこの子に殉子(じゅんこ)とつけようと思いました。名前をつけるにも誰にも相談する人もいないし(夫は兵役で青森に配属されていた)、トキ子(長女)が横須賀へ学徒勤報隊に行っていましたので、手紙で相談しました。そしたら、殉は死に通じるから、生まれたばかりの子供につけなと返事がきました。役場に届ける日も迫っているし、父の名前をもらって八百子としました。(父の名は八百治)杉浦先生が尋ねてきて、命名の紙を見て「おや、爺さまの名をとってつけたな。うちでも女の子が出来たので、婆様の名をとって米子とつけたよ」と言いました。それで、杉浦先生の家には、八百子と同じ歳の米子さんがいるなと思いました。
八百子は、杉山さんからもらった赤い毛糸の服やオーバーをいつも着ておりました。私は、店で仕事をしなくてはならないので、トキ子やセツ子がよく八百子のめんどうを見てくれました。布など配給で、なにも売っていなかったので、トキ子は自分の着物をこわして八百子の服やズボンを作って着せておりました。

八百子の一年生の先生は、大和田先生で男です。仕事が忙しいので、あまり授業参観には行かれませんでした。きき分けのいい子供で、あまり私のあとも追いませんでした。向かいの橘さんの所に、私が買い物に行く時も、途中まで追いかけてきても、私に来るなと言われて戻りました。今それが悔やまれてなりません。あんなにあっけなく早死にするなら、何か買って喜ばせてやるのだったと、いつも心の中でわびています。

物のない時、金のない時に、短い人生を終わって、可哀想でなりません。本も上手に読んで、作文も得意でした。私が、梅を干しておりましたら、いじりますので、いじってはいけないと言いましたら、作文に、「梅干しを手伝おうと思ったら、するなと云われました」と書いていました。私はいたずらだと思ったのに、八百子はお手伝いのつもりなのでした。子供の心を理解しないおろかな母でした。

学校で、遊戯をならってきました。床の間を教壇にして、そこに私を座らせ、遊戯をして見せました。私がうまいうまいと言ってやると、とても喜びました。たのしい思い出です。

一年生の遠足です。妙見様(神社)から大黒様(神社)までです。私は、稔をつれて行くのが大変だったし、ついて行きませんでした。エンジの毛糸の服を着て、一番前にならんでいる写真があります。八百子の唯一の遺影です。

「八百子、母チャン行かなくて淋しくなかったか」とききますと「お母さん行った人は、お母さんとおべんとう食べた。お母さん行かない人は、先生と食べたよ」と云いました。お母さんも、十人くらい写真にうつっています。行ってやればよかったと、八百子にすまなく思っております。

夏休みの招集の日です。私が、裏の畑の、ネギの草をとっておりましたら、赤い服に、黄色いスカートをはいて、何か言いに私のところにきました。それから二、三日で死にましたので、その姿が私の頭にやきついております。毎年夏ネギの草取りをすると、八百子のあの姿が、目にうかびます。もう三十三年すぎたのに、まだ一年生の八百子です。

病気になる前の日です。鹿島の敦子(姪)が遊びにきました。あずきを煮て、ぼた餅をつくりみんなで食べました。次の日です。腹が痛いと言って下痢をしました。私はかくらんだと思って、足の裏にキウリの葉を塩でもんでつけてやりましたが、熱も下がりませんので、赤坂先生の所に、おぶって、つれて行きました。一向に下痢もとまりませんので、今村邦雄先生にもきてもらいました。痛いとも苦しいとも言いませんでしたが、「母チャンだかる」と云いました。あの時は身のおき所もないほど体がだるかったのではないかと思います。杉山のおきみさんは夜おそくまで居てくれまし
た。二、三回けいれんを起こしましたが、夜が更けて、すやすやと眠っているようでしたが、明け方すうっと、いきを引きとりました。こんなに、やさしいかしこい子を死なせてしまって、どうしよう、私は、ふぬけになったようでした。

翌日、トキ子等が東京からかけつけました。一日で、冷たくなった、妹をだきしめて「私がいたら死なせない」とくやしがりました。

生まれつき弱かった、稔までも、一緒に死なせて、私はなんという悪いことをしたのでしょう。何の知識もない、いたらない母でした。一生この悔いを心にだいて、生きて行きます。幼い二人の命をなくして、二人には、わびてもわびきれません。赦して下さい。
  
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プロフィール

 1960年 福島県南相馬市(旧小高町)生まれ
 1982年 二松学舎大学文学部卒業
(卒論は川端康成の「魔界文学論」)
 1982年〜1985年 フリーターをしながら小説修行
 1985年 書店員となり地道な生活
 1995年 地下鉄サリン事件当日。胃癌の手術を受ける
      (以後完治)
      小説を自費出版 『スプーン』(新風舎)
 2002年 書店を退職。
      独りで出版社を作り、日本を旅しながら
      フリーペーパーを発行する
 2003年 『指の音楽』(筑摩書房)で太宰治賞受賞
 2007年 『TSUNAMI ーつなみー』
      (筑摩書房)発行  

 2009年 Web超短編小説『新明解国語事典小説
      』の連載開始 

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