星 の て が み

「 あ あ、 い と お し き 魂 よ 」 「 ΦΙΛΑ ΨΥΧΑ 」

   森田 團

 
アリストテレスが言うように、魂が生の原理であるならば、
その最もプリミティヴな発現は運動である。運動は、まずは移動の能力と解しうる。
自然の観察によって私たちはこのことをたしかに知っている。
私たちは何よりも自ら動くものを生あるものとみなしてきたのである。
しかし、私たちはいかにして運動を運動として認めるのか。
運動を運動として知ることができるのは、
私たちがすでに運動しうるからではないだろうか。

では私たちは自らの運動をどのように知るのか。
運動の認識は、やはり内的な感覚、
それも力の発現の感覚に根本的に依拠しているように思われる。
内的に何らかの力が働いているという感覚を持つとき、私たちは運動していることを知るのだ。

このように運動を解釈するとき、運動はたんに自らを身体的に動かすことに還元されないような
広い意味を持つことになる。実際、ギリシア語で運動を意味するキネーシスは、
狭義の運動のみを指していたわけではなかった。それは魂を動かされること=情動をも意味していた。
英語のmoveの用法を想起されたい。情動の発現もたしかに内的に何らかの力が働いているという実感を伴っているし、
魂が生き生きと活動=運動することのしるしは何よりも笑うこと、喜ぶこと、泣くこと、悲しむことと言った
エレメンタルな情動の発露にはっきり示される。この意味で情動もまた運動の根本現象であると言うことができるだろう。
さらにはまた想起すること、希望すること、心の中で思い描くこと、
これらに共通する想像力の働きもまた運動の根本現象に数えることができるかも知れない。

では、身体的な運動、情動の発露、そして想像力の働きという互いに何の関係もなくみえるものを
いかに運動概念に包摂しうるのか。要するに運動とは何か。
そのとき内的な力の発現という観点は大きな手掛かりとなる。
力の内的感覚は、力が力として活動状態にあるという感覚のみならず、
この状態が次々と現在の状態を乗り越えて行くことの感覚である。
力は持続的に連続的に発現するのではなく、むしろ自らを一瞬一瞬乗り越えて行くことで自らを持続する。
そして同時に、内的な力の感覚そのものの条件が、力の自らを乗り越えに存するように思われる。
なぜなら、感覚の度合いが不変で恒常的なとき、私たちは感覚をほとんど感覚しないし、
その度合いが連続的に増大するならば、すぐに力は自らを更新できなくなってしまうからである。
したがって、力の自らの乗り越えとは、いわばリズム的に力が力を内的に更新することを意味することになろう。

このリズム的な力の更新の内的感覚が世界を根源的に開くように思われる。
なぜなら、このような根源的な感覚によって、私たちは世界を生のリズムに満ちたものとして感覚しうることになり、
この感覚によって内は外に、外は内に反転しながら照応するからである。
この照応関係を捉えるものこそ、古来より知性=ヌースと呼ばれてきたものではないだろうか。
  
 

プロフィール

1967年 静岡県生まれ
西南学院大学国際文化学部講師専攻は哲学