星 の て が み

虹を吐くひと

岡戸 敏幸

 
江戸の手妻書『珎曲たはふれくさ』(鬼友作 寛政七年刊)には
虹を作る男がいる。口から吹き出した霧が扇形に開いた先に、小さな虹がかかる。
点線で四つの帯に区切られた虹の描写は、連続的に色相が変化するさまを
合理的に表現しているが、この絵には嘘がある。

虹の男と向き合って座る男の前には、杯台に載った大きな杯がある。
男の指差す杯には虹が映っているかも知れない。傍らには、銚子と酒肴らしきものも見える。
ここは夜の酒席である。座敷を照らすものは仄暗い行燈であろう。
虹が生まれるはずはない。絵空事、ここに極まれり。
江戸のひとびとは、虚実のあわいに浮かぶ酒の虹を楽しんだことだろう。

半世紀以上前、瀬戸内の療養所の一隅にも虹を吐いたひとがいる。
癩者の歌人、明石海人(1901-1939)である。死を目前に編まれた歌集『白描』(昭和十四年 改造社)は、
病によって失われていく眼の光や、指先の感覚を、慈しむように研ぎ澄ましていく言葉に満ちている。

わが指の頂にきて金花蟲(たまむし)のけはひはやがて羽根ひらきたり感覚の鈍った指の先に、
金花蟲が翅を開く気配を感得する海人は、生身の体の制約から自由になっていく。虹を吐き出すことも雑作ない。

 星の夜のこの大空を虹色にわが吐く息は尾を曳きてあれこの虹は、物質としての肉体から解き放たれた、
いのちの光である。空にかかる虹のようにいのちは虚であるのか。
忽ち消え失せ、手に触れることはできなくとも、それは美しく輝く。
それで十分ではないか。私は見えない虹を吐きながら生きている。幸生堂 岡戸敏幸 

  
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プロフィール

1963年東京生まれ。
早稲田大学大学院修士課程修了。
日本美術史を学ぶ。サントリー美術館学芸員を経て、
現在、早稲田大学文学部非常勤講師。
近年は、人が生きていくための「絵の力」につい
正岡子規らの仕事を通して考えている。

著書
●『虹をみつけに』
(「月刊たくさんのふしぎ」第248号 福音館書店)
※「虹を吐くひと」  2005年10.23.深更

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